環境保護からより広い管理の必要性へ:バイオ技術と法律

 

Philip J.Regal

ミネソタ大学、生態学、進化、行動学学科教授  

セントポール、ミネソタ55108

訳 長坂敏雄

 

 遺伝子工学―組換えDNAとそれに関連する高度な遺伝子操作技術―は、未来の予言として70年程前にその基を発している。

 今日の遺伝子工学者は億万長者になっている。彼らは新たな商業帝国について語っている。遺伝子工学の潜在能力を理解する見通しと才能があるものは世界支配の新たな形態を確立するだろうと彼らは主張する。しかし、これらの帝国と世界支配に関するおしゃべりは必ずしも話題の中心ではなかった。分子生物学者たちは、人間を含む自然界の混沌から秩序を引き出すという遥かな見通しをもって仕事を始めた。

 1930年代の大失業時代に、そして2つの世界大戦の間の混乱の時に、ロックフェラー財団は、夢を追い求めて莫大な資源を使った。かれらは、遺伝子に関わる物質は血液中や組織のある種の化学物質に違いないこと、そしてその化学物質は必ず特定できることを理解した。彼らの夢は、ひとたび遺伝の科学がわかれば、実験室でそれらを扱うことは可能にすることだと考えた。それは、あたかも、天然の染料や繊維に勝っているかのように見える合成繊維や染料のように。

 実際ロックフェラー財団は一つの科学文化をつくったが、それは今日分子生物学と言われるもので、化学者と物理者、遺伝子学者を カリフォルニア工科大学のようなところに集めて、将来への明確な計画と見通しを持って、彼らを結びつけた。もちろん寛大なる財政的、政治的援助をともなったことは言うまでもない。この共同体はその後数十年間続いたが、それは単に財政的政治的援助によるだけでなく、今日では無邪気に見えるかもしれないが、科学文化に対する未来信仰のようなものにも支えられてもいた。

  遺伝子コードに対する科学的な支配は、地球上の生命体を分子生物学者とその後援者の知的管理の下に置くことになる。穀物と家畜は完全に管理されるようになるだろう。野生種は、それ自身のためにではなく、人間のために働くようになるだろう。人間すらも、自然淘汰の限界を超えて化学的な優生処理を施され、ハイレベルな人間に改造されるかも知れない。こうした流れを受けて、ノーベル賞の授与者であるジェームズ・ワトソンが、最近、科学者は正直なところ、神に代わって仕事が出来るとしたら一体誰が出来るだろうかと言っていた。

 50年間近く、新しく登場した分子生物学者の各世代は、新アトランテスのベーコンが持つ際限のない楽観主義、すなわち科学はいつの日かユートピアをつくるだろうという楽観主義の恩恵に浴する文化にひきこまれた。そして彼らはデカルトとニュートンを信頼し、かつての錬金術師たちのように、ひとたび法則というものが分かれば、人間は未来の出来事を予測できると考え、さらには人間がその法則の主人になれるとまで考えた。

 数十年間にわたって、分子生物学者は、豊富な資金を得て、驚くべき発見を数多く成し遂げたが、彼らをとりまく社会の多くが、科学と技術を善悪両方に利用できる両刃の剣と見なし始めたことには無頓着だった。例えば、科学と技術は世界大戦において大量殺人、大量破壊の決定的な要因になった。さらに、1950年代、60年代の人々は、核戦争の脅威のもとに生活した。ロサンゼルスや他の都市の人々は車の排気ガスに苦しめられた。酸性雨は森や湖、歴史的な遺産をも浸食し始めた。ジャック・コクトーは大洋における殺虫剤について報告した。DDTの使いすぎが、白頭ワシの絶滅をもたらした。医学の進歩は、生活の質を改善したと同様に、苦しみをも拡大することになった。分子生物学者をとりまく社会は、科学を管理されるべき必要のない神の賜物というよりはそれ自身中性であるとして見なしてきた。

 量子力学は自然が不変のものではないことを明らかにしつつあったし、生態学的調査は、動植物の共同体の仕組みの理解を変えつつあった。

 1970年代になってやっと分子生物学者たちは、自らが作り出しているものが持つ潜在的かつ否定的な部分について話し合わなかったことに気がつき始めた。そして1970年代の中頃になって、洪水のように潜んでいた問題が一度に吹き出した。二つの有名な会議、ゴードン・アシロマー会議においてこれらの問題に関して討議がなされた。だが、問題があまりにも多岐にわたりかつ複雑だったので、科学者だけでは無理であることが明らかであり、会議の結果の公開は、強く国としての関与を求めた。そこで、RCA(遺伝子組換えのための助言委員会)を立ち上げ、米国国立衛生研究所の指導の下、指針づくりを発展させた。

 しかしながら、RCAは組換えDNAの実験室での実験の安全性に関する問題で手一杯であった。それは生態学的に生存可能な遺伝子組換え生物の安全性に関する問題にさえ答える立場になかったし、それがもつ社会経済的なかつ倫理に関わる問題にはついてはなおさらであった。しかし、RCAがあるという事実は、力のある誰かが新しい遺伝子技術を取り込もう考えているというよくない印象を残した。分子生物学者たちは、彼らの心配は無用であり、すべてがうまく行っていると指導者たちに思いこまされた。

 実際何人かの作家が、遺伝子組換えの意味するものについて、そしてそれがもたらす利点と共に健康や環境に与える潜在的な危険について考え、かつ書いていた。しかし、彼らがたとえ優れた作家であっても、実際の力はなかった。力のある政治家や実業家たちは、科学者は自らを自己管理していると言い、科学者に対してはもともと管理は必要ないものだとか、非本質的な部分で法律に関わる問題には精を出していると思わせた。

 このようにして、およそ70年のあいだ遺伝子工学を公的に管理するということが公然と無視された歴史がある。最初の50年間は、分子生物学者と社会の大半の人たちがユートピアという言葉を理想的な言葉として考えていたがために、管理という問題は無視されていた。次の四半世紀近くは、管理と言うことが問題にされ健康と環境にとって危険であるということであつく論議されたが、より広い問題は完全に無視され、健康と環境の問題もまたより広い社会経済的問題や倫理的問題もそれは政治の問題であるとして実際の行動はとられなかった。

 バイオ技術の共同体は社会に対して統一した顔を見せた。それは遺伝子操作に対する統制と自己管理をあらゆる場面で提示し約束した。今振り返れば、そこに無邪気な期待と失敗の記録を見るだろう。以下のような説明がある。

 分子生物学者は、自分たちのプロジェクトから生じることを科学的な確信を持って予想できるから、遺伝子操作には、外部の監視は必要ない。このことは1930年代から70年代にかけて信じらてきた。やがて、遺伝子を組み換えるということが現実になるに従い、分子生物学者の中には、彼らの仕事がもたらす生物学的な意味が、それがもつ社会経済的かつ倫理的結果はもちろんのこと、理解できない人々が出てきた。

  負の結果はごく少量だから、管理は必ずしも必要ではない。この議論は1970年代後半になって発明され、現在でもときどき見られる。しかし、遺伝子操作とその商業化を学んだものにとっては納得のいくものではない。

  危険があるかも知れない、しかし分子生物学者や科学関係者たちが自己管理のための組織化を行うだろう。しかしこの計画も科学者間の経済的、経歴的、哲学的な衝突のため失敗した。例えば、あの米国国立衛生研究所の下にあったRACも技術的な決定をするための専門的な知識に欠けていて、その仕事の負担は莫大であり、かつ政府や科学行政の影響から無縁ではなかった。

  遺伝子操作は政府が運営する調査機関に限定されるべきだ。このことはすぐに不可能であることが明らかになった。科学技術はどこにでも持ち運びが可能だし、あらゆる産業への応用には多大な政治的圧力があった。

 政府の調査官がバイオ技術を管理すればよい。この考えは1980年代には人気があった。しかし最大でも、彼らが出来ることは特定のプロジェクトの管理だけであり、一度だけ彼らは計画の見直しをゆだねられた。官僚たちは訓練も受けていないし、権威も広い視野からの指針を与えるだけの信望も、また現場を訪れてものを言うだけの資料も権威もない。特定の商業プロジェクトの安全性に関するという狭い範囲でさえも、これまでの経験からすれば、彼らは政治的な圧力から自由ではない。このように、調査結果を確定する際に、正しい科学基準に基づいていないと言う批判を彼らは受けてきた。

 市場と法廷がバイオ技術を規制するだろう。これは社会が未来志向になるにつれて、一般的になった態度だ。しかし、市場がいい知恵を供給するだろうと言う考えは、超現実的イデオロギーの臭いがする仮定だ。市場は、我々に、ポケモンやタイその他の地域での子供売春、貿易の危険な不均衡ををもたらし、それに相対する形で、マドンナやジョン・トラボルタはもちろん、ガソリンを浪費する乗り物を提供している。法廷は複雑な科学的かつ社会経済的問題に対して指導性を発揮するようにはなっていないし、彼らの決定はしばしば、弁護士に、金をつぎ込める人に好意的なものにある。そして裁判官も政治的イデオロギー的な先入観や圧力から必ずしも遮断されているわけではない。

 政府は管理できない、そこでNGOがする必要があるだろう。これはDRAPAのためのRANDコーポレーションによる最近の報告の結論だった。しかし、NGOはそれ自身の課題があり、対応には限度がある。RAND報告にはこれらをどうすべきかという示唆はない。

 今日の社会は、一般大衆と科学に関わる多くのものから見て、アクセルはあるがブレーキとハンドルがない車でバイオ技術の未来に放り込まれつつある。アクセルに置かれている足は明らかだ。金持ちのためドライブだ。銀行と投資家に払うために必要なものだ。中央と地方の政府、そして民間からの資金を得るためのものだ。飢えと栄養失調を終わらせ、複雑な問題にこれまでと違う簡単な解決を与えるという間違った信仰だ。それは帝国のためのドライブだ。

 しかし、ブレーキをかける足がどこにあるのか、一般大衆が運転する余地がどこにあるのか。この2、3年、バイオ技術は法廷や外交交渉のテーブルにのりつつある。こうした込み入った問題は科学と同時に社会経済が理解できる人にとっては予見しうることであった。しかしこうした理解は、メデイアの理解、報告、説明そのものの限界性、大衆を安心させる企業の大量宣伝、そして必要な観点から発展する技術の研究をする人がほとんどいないと言う事実によって広がっていない。

 次は多くの人にとっては突然訪れたように見えるが、しかし予想できる例のいくつかだ。

 バイオ技術への高まる野心と高コストにより、会社の合併と乗っ取りを促すーグループは生命科学会社の独占的な行為を訴えている。

  国立科学アカデミーと政府は企業にバイオ技術を取り入れるように奨励し、政府の調整官たちは永年バイオ技術を促進することに携わってきた。その結果 彼らは、企業を厳しく指導しなかったとして訴えられている。

 遺伝子特許は壊れやすい、そしてこのように政府と産業の協力によって特許は発展してきたので、多くの場合民主的な伝統に対して攻撃的であり、根底的に矛盾するものであることがわかる。挑戦的な事例が法廷で認められるに従い、ますます複雑になる。

それぞれの国は、偏った法的手段を使って他国に自分たちの特許や未テストの製品を受け入れるよう強要し、その結果外交関係を損なう。

 生物が異種間交配し拡散すると、法廷でのバイオ汚染に関わる争点になり、所有権と責任に関する複雑な問題が持ち上がる。

 バイオ技術は生物兵器の競争を増加させる。企業の秘密性は、科学会社や薬 品会社が生物兵器を禁止しようとする国際的な努力を邪魔する方向に導き、国際的な安全と国際関係に様々な問題をもたらす。

 バイオ技術や他の競合するあるいは高度な概念に基づく調査研究に携わる大学の研究者たちは、共通して患者に対するインフォームドコンセントの過程や他の患者のための安全を回避し、その結果患者は虐待され、大学は罰せられるか現在訴えられているか、今後訴えられるようになる。

 そして、今日の法的かつ契約に関わる問題はほんの氷山の一角だ。予想される今後の問題の長々しい一覧表をつくることは時間の使い方としてはよろしくない。まとめに際して大事な点は、すでに私がいくつかの出版物で述べたように、様々な構造的要素はこの間整理されてきて、それらが私たちのに問題を投げかけている。

 

そうして構造的要素とは

 遺伝子操作の技術的性質と作り出された種の特徴

 特許と投資の試みが持つ技術的、社会的側面

 遺伝子操作に関する科学的(哲学的、思想的)考え方

 職業的な地位、資金、大学と産業界、政府の関係に関わる共同体の組織化

 資金提供、コンセプトへの信頼、競争的な野心とプレッシャーという観点から見た産業の性質

 その産業内での、利益、危険、倫理、社会的機能の定義、公共性の定義をどう見るのかという問題の歴史的な経験とそれへの影響、そして他の科学者との交 流や批判を受けとめる能力

 

 終わりに当たって、このことは述べておきたい。すなわち、こうした要素を研究することは莫大な時間がかかるが、バイオ技術はどんな形であれ、今後の人間の歴史に存在しつつけるだろう。数しれない誇大宣伝の洪水の中から、いくつかの真に素晴らしいバイオ技術の発展が出てくるだろうし、そのことで更なる加速が考えられる。そして引き続きあれこれの方法で、生命を吾がものにしようとしたり変化させようとする努力が行われるだろう。バイオ操作に関わる者の中には、混沌から秩序を作り出すという昔からの夢を追求する人がいるだろう。金持ちになったり、新秩序の世界の号令者になる夢を持っている者もいる。医療のデータ基盤を破壊する遺伝子操作された怖しい疾病を伴いながらも、農業に関するバイオ技術が消えた後も、医学に関するバイオ技術は残るだろう。遺伝子操作された穀物や自然種、特許を与えられた命、そして、クローン人間と性を管理し、遺伝子段階で人を台帳管理する、さらには人間そのものを作り替えるとさえ言われている未来に対して、市民として何が出来るか。我慢できなくなった人々は、少なくともある種の遺伝子操作については一時停止を求めている。そして一時停止は、その産業に外部からの監視の目を求めさせるだけの十分な圧力を与えるだろう。しかし、一時停止は厳し過ぎるし、少なくとも彼らの気質には合わないと考える人もいる。彼らの仕事は、ブレーキをかけ、動いてる車をうまく操作する別の方法を考えることだろう。

 

 

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