週間道長 No.055

 

(報告)いらない!遺伝子組み換え食品京都集会

ヴァンダナ・シヴァ女史の講演

 

3/26、平日にもかかわらず、京都駅前アヴァンティホールには、270名ほどの参加者が集まった。基調講演には、農業を基盤としたエコロジスト、ヴァンダナ・シヴァ氏をはるばる インドから。京都大学、農学部の西村和雄氏の有機農業と遺伝子組み換えについての話のあと、シヴァさん登場。

 

シヴァ氏の講演は通訳を通しておこなわれるため、断続的に意味を伝えるという作業となり、若干臨場感に欠けるものの、氏の長年のグローバリゼーションとの戦いを理解させるには十分だった。シヴァ氏の講演の内容をまとめてみた。

 

戦争では化学兵器を作ってきた会社が、その技術をそのまま使って農薬をつくり、GM作物までも開発し販売する。1960年代に起こった『緑の革命』のもたらしたものは、疲弊した土地と農家の貧困だった。従来の農法では必要のなかった多量の資本投下が近代農業では必要となり、その代償として得られるのは除草の省力、殺虫。その結果環境は汚染され、農家に残るのは債務。

 

『第2の緑の革命』とまで言われる、遺伝子組み換え技術。その便利さの結果には、ここでもやはり『負』の資本と環境汚染。バイテク企業の搾取ぶりは目に余るも のがあり、イギリスによるインド支配という過去の出来事以来の大きな怒りといえる。大国の農産物輸出品の安価な理由は、その背後には国からの巨大な補助金によって成り立っている。そのために、小麦や大豆、綿、トウモロコシなどのダンピングがおこなわれている。

 

インドではBt綿の収量が上がることもなかったし、ビタミンAを強化するというゴールデンライスにしろ、それは他のハーブから摂取できるものであり、まったく不必要な作物といえる。

 

そういったグローバリゼーションの対象とされ続けてきたインドの農業を救うため、ナヴダーニャという実験農場を開設。16年前からオルターナティヴなことのために人生をささげてきた。在来種子の保存や栽培試験、たい肥作り、多品種農法(病気が少ない)の実践など、バイオテクノロジーに頼らない従来の農業を振興する運動をしてきた。

 

企業的な考え方は農業をだめにする。本来、農業において女性の役割は大きく、そういった助け合ったり分け合うという精神は企業的な考えにはない。

 

インドでは女性の力で農、食を守る運動を続け、勝ち取ってきた。シヴァ氏との質疑応答にも多くの質問がなされ、それに対して彼女の丁寧な応答は印象的だった。

 

この後、『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』から、愛知県農試でのモンサント社 との共同研究、遺伝子組み換えイネの中止の報告。

 

集会終了後、別会場でシヴァ氏を囲んでのミニ講演。懇親会会場は京都精華大学の学生たちにより設けられ、さらに熱い質疑応答がなされた。ここでもシヴァ氏の熱弁、丁寧な応答が印象的だった。

 

たより

『経済の国際化』

最近、グローバリゼーションという言葉をよく聞く。この単語の意味を辞書で引いてみると、『国際化』ということになる。この言葉が使われだしたのは83年頃だそうで、米国の洗剤会社が同じ商品をちがう呼び名で日本で売り出したものが良く売 れた、というのがきっかけであったらしい。

 

とはいえ、現在つかわれている意味合いとはすこし違うような気がする。その後、この言葉が経済の国際化、さらには経済至上主義、そしてさらには覇権主義へ。

聞こえのいい表現をすれば、経済の国際化ということ。だとすると、日本人が表面的な解釈をすればなにか『よろしいこと』というような意味合いを感じてしまうのではないか。だいたい『国際化』などといえば、保守的に閉鎖された考え方が開放的なものとなって、他を受け入れることのできる寛容な精神への明るい兆し、のように錯覚してしまう。つまりは、経済を最優先する国にとっては、いいことづくめの言葉なのではないかしらん。

それに対して、途上国にとってはこの『グローバリゼーション』という言葉は、非常に忌まわしい意味合いのものでしかない。遺伝子組み換え作物や農薬などを商売の種にする多国籍企業の市場独占を目的とした、一方的なビジネスなどは、まさにこのグローバリゼーションという言葉が当てはまる。なぜならば、経済至上主義にとって、開発国に売りつけることのできるものといえば、まずは基本的な食、つまり『農』ということになるから。

 

日本人にとって一見『国際化』を連想させるこの言葉が、開発国にとってはまった く逆を連想させてしまう。しかしながら、このグローバリゼーションなる言葉は、もっとわかりやすい言葉でいえば『アメリカ化』という言葉に他ならない。ここではっきりさせておきたいのだけれど、この『グローバル化』がいちばん完璧におこなわれた国といえば、それは他ならないこの日本なのだといういこと。

 

こんな『グローバなんとか』などというふざけた言葉を、さもほかの開発国で起きている問題と片付けている殿方がいるとしたら、よほどの低脳としかいいようがない。今の日本を冷静にながめてみればすぐにわかることだ。まずは、その食生活。米飯食が洋食に取って代わられ、町のあちこちにマックだケンタッキーだが立ち並び、それにかぶりつく。訳のわからないカタカナ語を、自分の手足のように自由に使いまくる。アプリケーションだ、ソフトだ、バイテクだ、なんだかんだ。もういい加減にしてほしい。これだけ日本がグローバリゼーションの餌食になっているのだ、という意識をはっきりと認識せずして、何が世界大国といえるだろう。日本などそれこそ『カモ』でしかない。はい、カモというのは人間ではないのです。獲って食われるただの肉なのです。

 

大体、ブッシュの言葉を、右に同じ、などといっているようでは、日本もグローバなんとかの手先としか存在意義がないのかもしれませんよ。

                                    道長 石川豊久

 

 

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