ゲノム編集
環境や人間社会に及ぼす影響について 生命倫理の側面から

河田昌東(かわたまさはる)
遺伝子組換え情報室
1)ゲノム編集の目的

 ゲノム編集の目標は、既存の動植物の遺伝子DNAを編集することで、農作物や畜産・漁業など食品に関わる生物の生産量を上げたり、環境変化に適応する動植物を作り、あるいは病虫害に対する抵抗性を上げる、など本来の生物が持つ性質を変更することで人間社会のニーズに応える事である。しかし、自然界は複雑で人間にとっては害虫でも自然生態系のサイクルには必要だったりする。従って、ゲノム編集を行った生物が自然界でどのような適応をするか、生態系を破壊しないか、など難しい判断が求められる。

 更に、ゲノム編集の大きな目標の一つが人間の遺伝子疾患の治療である。これには、現存の病気を持つ人体に対するゲノム編集と、生まれてくる赤ん坊が先天性の病気を持つ場合に受精卵または胎児に対するゲノム編集がある。また、親のどちらかが疾患遺伝子を持つ場合、卵子や精子の段階でのゲノム編集もありうる。

 現在、出生前診断はごく普通に行われるようになっているが、胎児に問題があると分かった場合に出産するか否かは親の判断に依拠しており、親にとっては大きな悩みの種となっている。胎児のゲノム編集が可能となればそれを希望する親も出る可能性はある。このように生殖細胞や受精卵や胎児のゲノム編集は、その時の社会のありように大きく左右され、容易に優性思想につながる恐れがある。
2)ゲノム編集と差別・格差の拡大

 また、遺伝性疾患に関わる生殖細胞や胎児のゲノム編集は社会的差別につながる恐れもある。現在も遺伝病の患者は社会的差別を受けることが多く、それ自体が問題だが生殖細胞のゲノム編集で遺伝病が治るとなれば、当然、社会の中で富裕層が高額な医療費を払いゲノム編集を受けるチャンスが増えるが、高額な医療費を払えない人々との間に社会的格差が広がる。そうした差別を起こさないためにどのような社会的システムを作るかが大きな問題である。

 また、スポーツ選手などの場合、筋肉の増強を図るためにミオスタチン遺伝子(筋肉の過剰な発達を抑制する遺伝子)をノックアウトする等(遺伝子ドーピング)も考えられるため、国際オリンピック委員会は2003年に遺伝子ドーピング禁止を表明し、WADA(世界アンチ・ドーピング機構)は2004年に遺伝子ドーピング専門部会を設置し、具体的な対策を検討している。将来的には期待通りの子孫を作る「デザイナー・ベビー」の可能性さえ想定されている。
3)生命倫理の観点から

 こうした様々な可能性を含むゲノム編集技術を、社会はどのように受け入れるべきか、又は受け入れてはならないか、を判断しなければならない局面に我々は立たされている。これまでも、生殖補助医療としての体外受精や代理母の問題、他人の精子による人工授精など生命倫理に関わる課題があったが、社会は不妊治療という目的でそれを認めてきた。また、1997年には議員立法で臓器移植法案がだされ、その可是非をめぐって大きな論争になった。この場合は「脳死」は人の死かどうかをめぐって激しい議論が戦わされたが、結局、臓器提供者が生前に臓器提供を認めていたかどうか(子どもの場合は親の判断)が判断基準として現在は実施されている。しかし現実には臓器を提供する人は少なく、技術的には可能でも社会の受け入れは必ずしも万全ではない。このように生命倫理の問題は「生命とは何か」という根本的認識に関わっており、規制や法律を作る際にはその時の社会的受容環境によって大きく左右される、というきわどさを内包している。最近問題になっている旧優生保護法による"障害者"の強制的不妊手術はまさに「当時の社会が求める」人間像に即した制度によるものであって、生命倫理の観点からは到底容認できないものだが、「生命のあり方を社会が決める」危うさを示している。

 ゲノム編集に関しては、これまでの流れは卵子や精子、受精卵など、これから生まれてくる赤ん坊の未来を左右する生殖細胞のゲノム編集は禁止する、というのが欧米や日本の政府、学会のスタンスである。しかし、先に述べたように出生前診断などで先天異常の子どもが生まれる事が事前に分かった場合、あるいは親が癌になりやすい遺伝子を持つことが分かった場合、等に子孫の安全を望む親の願いを認めるか否かを誰がどのように判断するのかは極めて難しいと思われる。生命倫理の視点も又、社会が変われば変わる可能性がある事を深く自覚しなければならない。
4)最近、生命倫理に関連する更に踏み込んだ研究が発表された。

その1)  京都大学の研究者らがヒト由来のips細胞から卵原細胞を作った、という論文(Science 2018/9/20)である。研究チームはヒトの血液細胞をips細胞(人工多能性細胞)に転換し、これまでそれを「始原生殖細胞」に転換することには成功していた。今回、それを更に卵原細胞(卵細胞の一歩手前)に分化させることに成功した。5千個のips細胞を使い、11週間後には500個の卵原細胞が出来た。分析の結果、この卵原細胞はヒト胎児(妊娠9〜11週目)と同じ遺伝子を持っていた。今後はこれを実際の卵細胞に分化させる研究を行う。

 この研究の意味するところは、誰かの皮膚の細胞や血液の細胞をips細胞に脱分化させ、それを卵細胞に変換出来れば、同一人物の遺伝子を持つ卵子をいくつでも作ることが出来、体外受精させて子宮に戻せば、同一人物の遺伝子を持つ子孫を好きな数だけ誕生させる事が出来る、という事になる。技術的には可能なこの研究の実用化を我々は受け入れることが出来るのか?

 ips細胞の作製は京都大学の山中伸也教授が2012年にノーベル賞をもらった研究で、皮膚や肝臓など分化した動物の細胞に特定の遺伝子(3〜4個)を載せたレトロウイルスを感染させ、その遺伝子が発現すると未分化の卵細胞と同じ機能を持つips細胞が出来る。これに様々な薬品や血漿などの環境を与えると、皮膚や血液、心臓など特定の細胞に分化させることが出来る、という技術である。一部は既に実用化され、国の認可の基に目の難病患者にips細胞から作った人工網膜を移植する治療実験などが行われており、最近ではips細胞から作った血小板を難病の貧血患者に輸血する実験を厚労省が認可(2018年9月21日)する等、今後多くの難病治療に役立つと期待されている。これ自体、遺伝子組換え技術であり、いわゆるゲノム編集のように特定遺伝子の構造を変えるものではないが、分化した細胞の中で眠っている未分化遺伝子を活性化させる、という意味ではゲノム編集技術である。

その2)
 最近、盛んにゲノム編集に使われるようになったKRISPR/Cas9の技術を使い、マラリア蚊を絶滅させることができた、という研究(Nature Biotechnology: 2018/09/24)が発表された。 マラリア蚊は雄になる遺伝子と雌になる遺伝子の両方を持つ。この性の分化を支配する遺伝子をゲノム編集し、オスになる遺伝子には影響ないがメスなる遺伝子は破壊し生殖細胞を作れなくした。

 籠に300匹の野生の雌と150匹の野生の雄、それに雌になる遺伝子をゲノム編集で壊した雄150匹を入れて9世代〜11世代経過すると、雌は100%居なくなり蚊の繁殖は止まった、という。これを野外で行えば自然界のマラリア蚊を絶滅させることが可能になる。こうした研究は「遺伝子ドライブ」と呼ばれる。マラリアは人間にとっては怖い病気で、マラリア蚊の撲滅は昔から望まれてきた。しかし、この蚊が絶滅すると生態系にどのような影響があるのか、影響がないのかは分かっていない。人間の欲求が自然生態系の循環に優先するのか。これもまさに生命倫理のテーマである。こうした遺伝子ドライブと呼ばれる研究は既にいくつも公表されている。
5)最後に

 ゲノム編集の実用化は目前に迫っており、早急な対応策を考えなければならない。その為には専門家だけでなく一般の人々もこの事実を知り、我々がゲノム編集に関わる基準を作らなければならない。その為に何が必要か必要でないか、を議論する必要がある。
ゲノム編集は自然(Nature), 文明(Culture), 未来(Future)に 何を残すか・・・