はじめに |
|
カドミウム(Cd)は富山イタイイタイ病の原因となった有害元素で、汚染地域における農作物の Cd 汚染を如何にして減らすかは、世界的にも大きな課題である。鉱山周辺のイネの栽培には特に注意が必要で、日本だけでなく中国南部でも汚染地域が多く、近年、対策に関する研究が多数発表されている。筆者の個人的経験では、1970年代に三重県員弁郡藤原町(現在、員弁市)のセメント工場周辺で、Cd汚染米(1ppm 以上)が取れ大きな問題になった事がある。当時、筆者が所属した「名古屋大学災害研究会」が調査した結果、その原因がセメント工場の粉塵が原因である事を突き止め、そのメカニズムを解明した。町内の農家6名が裁判を提訴し、第一審で勝訴した。セメント工場が控訴しなかった為、判決は確定。国の土壌汚染防止法違反として Cd 対策が行われ、町内の汚染地域の土壌改良が行われた。その費用の半額づつをセメント工場と三重県が負担した。
著者の生まれた秋田県には鉱山が多く、戦中に銅や鉄の採掘が行われた結果、県内の鉱山周辺ではコメの汚染が懸念されてきた。これまで対策としては、出穂期の圃場湛水化で土壌中の Cd のイオン化を防ぐ対策が取られてきたが、農家の負担が大きく汚染があっても Cd を取り込まないイネの開発が行われた。農研機構の研究者たちが2012年に開発した「こしひかり環1号」である。あきたこまちRはコシヒカリ環1号とあきたこまちを繰り返し交配し、Cd 吸収を低くした交配種である(詳細は後述)。
|
1.「こしひかり環1号」は何故 Cd 吸収が低いか |
|
植物は成長に必要なミネラル(鉄 Fe、亜鉛 Zn、マンガン Mn 等)を土壌から吸収する為の蛋白質を作る様々な遺伝子を持っている。コシヒカリ環1号は Mn を吸収する蛋白質を作る遺伝子 Nramp5 に「重イオンビーム」という放射線を当てて壊し、Nramp5 蛋白質を作れなくした突然変異体である。Cd は植物にとっては不要な元素だが化学的性質が必須元素の Mn と似ているため、土壌中のイオン化した Cd が Mn と一緒に根から吸収され、茎や葉に転送されて汚染する。この蛋白質は「トランスポーター(運び屋)」と呼ばれる。この蛋白質は根の細胞表面に多数含まれ土壌から Cd を吸収する。
|
2.重イオンビームとガンマ線照射の違い |
|
品種改良には古くから放射線(ガンマ線)が使われて来た。ガンマ線による稲の最初の突然変異は1966年に作られた米「レイメイ」である。これは在来品種「フジミノリ」にガンマ線を当てて作った品種で倒伏しにくくなった品種である。開発したのは農研機構の前組織「農水省農業研究所」である。これまで、ガンマ線は「品種改良に頻繁に使われ、イネ以外にもブドウや花卉などの開発が行われてきた。一方、「コシヒカリ環1号」は重イオンビーム照射で開発された最初の品種である。アキタコマチRの推進派や評論家、消費者庁は重イオンビームも放射線であり従来のガンマ線照射と変わらない、と主張する。が、科学的には両者は全く違い、その影響の違いは大きい。
ガンマ線は電磁波で、そのエネルギーは 200KeV だが、重イオンビームは 100〜500MeV / ユニットで、重イオンビームのエネルギーはガンマ線の1000倍以上も大きい。その結果、細胞内で何が起こるか。ガンマ線が細胞に照射されると、その70〜80%は細胞内の水分子と衝突して分解し、フリーラジカルと呼ばれるもの(OH と H)に分解する。所謂活性酸素である。残りのガンマ線〈20〜30%〉は、遺伝子DNAに衝突する。活性酸素やガンマ線は細胞内の物質を破壊する。DNAの場合は塩基やDNAの鎖の片方に当たって破壊する場合が多い。
一方、重イオンビームは鉄(Fe)や炭素(C)原子の外側の電子を除いてイオン化し、加速器と呼ばれる巨大な装置の長い筒の内部に反対側のイオンを大量に作ってイオン化した Fe イオンや C イオンを高速で走らせ、目的の細胞に当てる。比喩的に言えば、ガンマ線は小銃の玉、重イオンビームは大砲の玉に相当する。その結果、ガンマ線照射では殆ど起こらないDNAの2本鎖切断が重イオンビーム照射ではほぼ100%起こる。
|
3.破壊されたDNAの修復 |
|
細胞は日常的に自然放射線にさらされている。多くはガンマ線やベータ線で、細胞内の必須元素カリウム(K)の成分に含まれる微量成分カリウム40(K40)による内部被曝にも晒されている。その結果、細胞一個当たり一日に約2万個所のDNA破損があると言われている。これでは生物は生きられない。太古の時代、深海で発生した生命体は自然放射線で壊れたDNAを修復する酵素を獲得した結果、陸に上がることが出来たと言われている。植物の場合、日常的に当たる光のエネルギーには紫外線も含まれる。紫外線もまた遺伝子を破壊するので、植物は紫外線で壊れたDNAを可視光線のエネルギーを使って修復する酵素も獲得し、2種類のDNA修復酵素を持つ。動物のDNA修復酵素は1種類のみである。
DNA修復の反応は複数の酵素が関与していて大変複雑である。DNAの一本鎖が切断された場合、最初に起こる反応は、切断されたDNA鎖の切断部分から3’方向と5’方向の両方向に数個の塩基が切り取られる(※)。そして、切断されていない相手のDNA鎖の塩基配列を鋳型として再び元の塩基配列を合成する。即ち、一本鎖切断の場合は壊れていないDNA鎖があるので正確に元通りの塩基配列に戻る事が出来る。稀に、塩基Aを入れるはずの場所に酵素が間違ってG等の他の塩基を入れる挿入ミスが起こる。これが所謂「突然変異」である。その結果、この遺伝子が作る蛋白質のアミノ酸が一個他のアミノ酸に変化する。その影響の大きさは、遺伝子のどの部分に起こったかによって違う。
重イオンビームの場合はDNAの2本鎖切断の結果、切断された両方の鎖でそれぞれ複数個の塩基が切り取られる結果、修復の際にコピーの鋳型となる塩基配列が存在しないので、大変複雑な反応が起こる。この場合、2種類の修復反応がある。一つは「相同組み換え」と呼ばれる反応で、細胞には染色体が2本あり、壊れていない染色体DNAを鋳型にして修復する「相同組み換え」という反応。もう一つの反応は「非相同組み換え」と呼ばれ、切断され複数個の塩基が切り取られたDNAの両端を無理やり結合したり、細胞内の長い遺伝子のどこかに存在する類似塩基配列を鋳型にして複製する結果、大きな遺伝子の変異が起こり「染色体異常」につながる。このように、従来の品種改良に使われたガンマ線照射と重イオンビーム照射の影響は全く異なり、両者を同一視してはならない。
|
4.コシヒカリ環1号で起こった事 |
|
農研機構の研究者らは、コシヒカリに人間であれば即死レベル(40グレイ)の重イオンビームを照射した 2595 株を Cd を含む土壌で栽培し、その中から Cd 濃度の低い3株(1cd−kmt1、1cd−kmt2、1cd−kmt3)を選抜した。1cd−kmt3株は Cd 濃度が低かったが、成長が悪く対象から除外した。1cd−kmt1と1cd−kmt2の遺伝子を分析し、1cd−kmt2を「コシヒカリ環1号」と命名した。破壊された遺伝子は Nramp5という遺伝子で、植物の成長や光合成に必須の元素 Mn を土壌から取り込む蛋白質を合成する。前述の通り、Cd は Mn と化学的性質が似ているため、植物は両方を取り込む。この遺伝子DNAの2本鎖切断の結果、修復過程で非相同組み換えが起こり、1cd−kmt1は切断されたDNAの個所に、新たな塩基が433個も挿入され大規模な染色体異常が起こっていたため採用せず、1cd−2を採用した。1cd−2株は Nramp5遺伝子の中の一個の塩基が欠損していた。「遺伝子の一個の塩基が欠損しただけで大きな変化はなく、従来の突然変異と変わらない」と主張する専門家や評論家がいるが間違いである。DNAの遺伝情報は3個の塩基で一個のアミノ酸に対応している。その結果、一個の塩基が別の塩基に変わった場合(所謂突然変異)には、合成される蛋白質のアミノ酸が別のアミノ酸に変化するだけで、変化したアミノ酸の場所にもよるが大きな影響はない。しかし、1cd−2の場合、一個の塩基が「欠損」した結果、作られる蛋白質のアミノ酸配列が大きく変わっている。これは一個の塩基の欠損で「フレームシフト」と呼ばれる現象が起こるからである。変化した塩基配列は Nramp5 のエクソン9という塩基配列の中にある。一個の塩基が欠損した結果、それ以降の塩基配列で作られるアミノ酸配列は全く別のものになる。「フレームシフト」が起こった結果、本来の蛋白質とは異なるアミノ酸配列の蛋白質が作られる。即ち、1cd―2には Nramp5 には本来存在しないアミノ酸配列の蛋白質が作られている可能性がある。この蛋白質は、場合によってはアレルゲン蛋白質の可能性も否定できない。農研機構の論文をチェックすると、原種のコシヒカリの Nranmp5 蛋白質のアミノ酸配列は本来538個のアミノ酸からなっているが、1cd−2の場合は一個の塩基の欠損でDNAのフレームシフトが起こった結果、N末端から306個目のアミノ酸以降が本来のアミノ酸配列と異なる配列になり、358個目のアミノ酸を決定するDNAの次の塩基配列がストップ・コドン(停止配列)になり、本来の蛋白質より短いアミノ酸配列の蛋白質(358個)が出来ている可能性がある。農研機構はこれをチェックしていない。
|
5.アキタコマチRの問題点 |
|
アキタコマチRはコシヒカリ環1号と秋田こまちを交配させて作った。品種の違いを出来るだけ小さくするために、第一世代の交配種F1と秋田こまちを再度掛け合わせF2を作る。こうした交配を8回繰り返した結果 Nramp5 以外の遺伝子は秋田こまちと同等のものになった、と考えている。Nramp5 遺伝子の欠損の結果何が起こるか。先述の通り、Nramp5 遺伝子は Mn を取り込む働きがある。Mn は光合成に必須の元素である。植物は光合成の際に光のエネルギーを使って細胞内の水分子(H2O)を水素イオン、酸素、電子に分解し、大気中から取り込んだ炭酸ガス(Co2)と反応させてブドウ糖(C6H12O6)を合成する(光合成)。Mn はこの際、水の分解反応に必須の元素である。従って Mn 濃度が低下すれば光合成に大きな負の影響が出る。Nramp 遺伝子には7種類あり、他の Nramp 遺伝子(Nramp3、Nramp6)も Mn の吸収に関与しているため Nramp5 遺伝子が破壊されても成長出来なくはないが、負の影響は出る。例えば、通常の土壌で栽培しても Mn 濃度の低い土壌で発生するゴマ葉枯れ病に罹りやすい。また、Mn 濃度が低いため出水期の高温が続くと収量が低下する、等、生産者には大きなマイナス要因になる。更に、Nramp5 を破壊されたイネはメンデルの法則で言えば劣性遺伝であり、2本の染色体の両方の Nramp5 遺伝子が(−)でなければならない。その結果、自家採取が困難になる。例えばアキタコマチRの圃場の近くに他の品種のイネが栽培されていた場合、その花粉が飛んで受粉すると、その種子は Nramp5(+)になり、翌年播種すれば Cd 吸収が再現する。従って、アキタコマチRの自家採取は危険で、毎年隔離圃場で種子を採らなければならない。
動物や植物の細胞には同じ遺伝子を持つ染色体が2本ずつある(2倍体)。何故か? 突然変異などで遺伝子が変化し機能しなくなった場合に、もう片方の染色体の同じ遺伝子が働いで機能を回復する。これをヘテロ倍体という。即ち、生物が突然変異などで遺伝子の機能を失った場合に対する安全確保のために進化した結果である。劣性遺伝というのは2倍体の染色体の両方の遺伝子が機能しなくなった場合を指す。即ち、劣性遺伝は生物の進化に対する干渉であり、放置すれば消えゆく存在である。
|
最後に |
| 植物の進化は興味深い。イネの Nramp5 遺伝子を破壊しなくても Cd 汚染を防ぐ事が出来る技術を紹介したい。インド南部のケララ州で3000年前から栽培されてきたイネ Pokkali は Cd を取り込まない品種として知られてきた。この地域の土壌には様々なミネラルが高濃度に含まれているが、Pokkali は Cd 濃度が低く、現在、6000ヘクタール栽培されている。この Pokkali の遺伝子を岡山大学の馬 建鋒(Jian Feng Ma)教授らが分析し、思いがけない事実が明らかになった(2022年 Nature Food)。Pokkali には Nramp5 遺伝子が2個並んで含まれていたのである。Nramp5 遺伝子の欠損では無かった。分析の結果、このイネの根の細胞に Nramp5 蛋白質が沢山存在し Cd が高濃度に含まれていたが、茎を通って上部には転送されていない事が分かった。馬 教授らは Pokkali と国産のコシヒカリ等との交配で Cd を吸収しないコシヒカリ等を作る事に成功している。秋田こまちも Pokkali との交配種を作れば Cd 汚染地域でも無理なく栽培出来るのではないか。 |